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第9回 「学習している姿」から学ぶ

 子供の頃、家で飼っている猫が季節になると子供を生みます。子供が生まれると、私の遊びは決まっていました。目が開いたばかりで、まだよちよち歩きをはじめた頃から子猫は実に好奇心旺盛です。 日一日と成長しているのが、子供の目にもはっきり見て取れるのです。 1ヶ月もすると、行動範囲も広がり、一日の内に実に多く経験と学習をします。 何にでも興味を持って近づき、匂いを嗅ぐ、こわごわ前足をのばしてツンツンと触ってはその未知の反応に驚いて飛びさがる。それでもまたこわごわ近づいて行く。これを何度か繰り返します。

 私も子供でしたから、時には近くの小川からザリガニを捕まえてきて、彼らの前に置くといった悪戯もしました。案の定、伸ばした前足の先をはさまれる、最悪の場合、匂いを嗅ごうと近づけた鼻先をはさまれ、泣き声を上げることになります。 2回ぐらいはさまれることがあっても、以降は、はさみには不用意に手を伸ばしたり鼻を近づけることはしなくなります。それでもまだ興味はあって、後ろへまわり込んでみる、ザリガニもそうはさせじと、向きを変えるといった「戦い」が繰り広げられます。

 子猫は、このようなことを繰り返しながら学習して行くのですが、この様子を何時間もの間、ときには一日中、退屈もせずに眺め、一緒に遊んでいました。 私の親は「いつまで同じものばかり見ているの?」と言いますが、私の目には、同じ状態は二度となく、絶えず変化しているのです。 このときの変化は非常に小さなものですが、子供の頃の私の目には、はっきりとその変化が掴めたのです。そして「こんなに面白いものがなぜ大人は面白くないのだろう」と思ったものです。

 退屈せずに見続けたのは、もちろん子猫のしぐさの愛らしさもあります。でも、もっと大きなことは状況の変化が興味を持続させたのだ思います。
 今思い返すと、さらにもうひとつ理由があったように思います。それは子猫の「学習しているときの姿」が面白くて飽きなかったのではないかということです。 子供の頃の私にとっては遊びかも知れませんが、子猫にとっては本能から出てくる生きるための真剣な学習だったはずです。

 この話を持ち出したのは、ほんの微小な変化でもそれを逃さないという「目」を持つことの大切さです。 子供の頃は、私も子猫同様、いやそれ以上に好奇心が旺盛で、多分真剣にものを見る姿勢があったと思います。 大人になって、他にやるべきことが増えるにつれて、そのような些細なことまで細かに見ている、観察している暇がなくなるのも現実です。
 でも、アイデアの元は、ほんの些細な出来事、現象の中に潜んでいることもよくあります。

 もし、何もしなくても良い時間が10分でもあれば、今のままの姿勢で目に映る、耳に聞こえる、肌で感じる何かがこの時間内に、どのように変化したか観察してみてはいかがでしょうか。
 たとえば、窓から見える景色、オフィスを行き交う人、聞こえてくる音の発生源など、10分間も同じ状態のものはまず何一つありません。時には、そのような当たり前のことを、今一度確認してみてください。

 人間の持つ繊細かつ高性能なセンサーを駆使し、その能力をフルに生かす訓練をしてみるのも、時として面白いものと私は考えています。いつかアイデアを生み出す、見つけ出す可能性を少しでも上げるために。

●子猫の名誉のために
上のイラストの子猫らしき(?)生き物は、なんとも間抜けな表情をしていますが、これは私の稚拙な描画能力から来るものです。本当は、もっと真剣な、慎重な姿勢で臨みます。特に顔と目は言い表し難く複雑で、そして瞬間に変化し続けます。子猫の名誉のために一言申し上げておきます。