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第37回 行間を読む


社会人一年生の頃の記憶

 社会人になったばかりの頃、直接の上司ではないある目上の人から 「お前は行間を読むことができんのか」と叱られたことがあります。
 「行間を読む」の意味はほぼ分かっているつもりでしたが、念のため席に戻って辞書を引くと、 「文章に現れていない部分を汲み取ること」とか「相手の真意を読み取ること」などと書かれています。
 まだ20歳代前半の頃でしたから、「業務上のことを曖昧な指示で出す方がおかしいだろう。
誰が聞いても間違いなく理解できるよう具体的に言えば良いだろう」と腹を立てた記憶があります。

 最近、あることを第三者に依頼したとき、私が言ったことだけが処理されて戻ってきました。
 依頼した内容を処理するには、私の常識では絶対に付随して処理されるべきことがなされていません。  「これぐらいのことは、言わなくてもやってくれるだろう」と思っていたことが見事に裏切られました。
 先に書いた「お前は行間を読むことができんのか」が、まったく逆の立場となって再現されました。
 「行間を読む」などと小難しいことを言わずとも、「相手の身になって考える」気持ちが少しでも働けばできることなのです。
 もっとも、あまりにも度を過ぎて「行間」を読まれると、かえって気持ちも悪く、 また間違った読み方をされると、もっと厄介なことにもなりかねません。
 はやり、限度、範囲をわきまえる必要はあります。

モノトーン表現

 話は変わりますが掲載の絵は、東大寺法華堂の国宝不空羂索(ふくうけんさく、または ふくうけんじゃく/ふくうけんざく) 観音菩薩像を切り絵にしたものです。
 ○でマークした部分をご覧ください。手の光の当たっているほんの一部を切り抜いただけですが、 5本の指や手の甲が見えてきませんか。
 この作品を見ていて、昔叱られた「行間を読む」ことが、遅ればせながらやっと分かりかけてきたように思います。
 もっともこの画像例の場合、人間の脳の見えない部分を補完する能力で見えています(見えるように思える)もので、 この場合は「行間を読む」意識は必要ありません。
 ただ、私がこの画像で思い出したので掲載した次第です。

業務では

 私の本業の1つであるテクニカルライターの立場では、読み手(ユーザー)に「行間を読ませる」ことは絶対に許されません。
 たとえば、「電源を入れましょう。」とだけ書いて、あとは読み手が「行間」を読んで 「電源を入れる前に危険がないことを十分確認すること」という内容を補完してもらうことは許されません。

 もう一つの本業のプログラミングについては、コンピュータはプログラムとプログラムの行間を読むことなど絶対にやってくれません。 もちろん、やってもらったら大問題です。
 プログラミングの場合は、あらゆるケースを想定し、あり得ないこと、考えられないこと、そしてバカバカしいと思えるほど ナンセンスなことまで最大漏らさず網羅する必要があります。

行間を読む

 人身事故が起こると困るからとか、PL法があるからなど、責任を回避する必要があるからと言った理由からではなく、 相手を思いやる、人命を尊重する気持ちの方が大切だと思います。
   相手に読ませるのではなく、こちらが相手の身になって「行間を読む」必要があります。
   今後も緊張感を持って、無意識で「行間を読める」状態で仕事に当たりたいと考えます。

(更新:2006.9.1)