しかし先日の朝、黄金に輝く稲穂の風景を見て昔の記憶が蘇り、やっとその真意がつかめたように思います。
何と、真意を掴むのに約半世紀を過ぎています。こんなこともあるのです。
最近の物忘れは、我ながらもう「天晴れ」と感心するほどですが、一方では半世紀もの昔のことはきちんと覚えているのです。
子供にもわかり易く、身振り手振りを交え、そして笑顔で話しておられた顔までも、かすかではありますが記憶に残っています。
ただし、どこのお寺であったかは完全に記憶から消えています。
ただ、「良い話」は、子供ながらにどこかで嗅ぎ分けているように思えます。
入社数年の若者に対して、「ずっと将来に必要になることを今話しても仕方がない。いつか然るべき時期が来たときに話そう。」
などと思っていると、いつ自分が転勤になるかもわかりません。
いつか役に立つかも知れないと思うことは、思いついたときに話しておくべきではないかと思います。
ただし、説教じみた話し方は、反発こそされ、何の役にも立ちません。
話す場合は、自分の言葉で、そして話すにふさわしい日ごろの自分の態度が必要です。
サラリーマン時代、上司がどこかの研修や講演会で聞いてきた話を、妙に自分の言葉で話したがる人がいました。
表現力が豊かな人は別にして、通常は、話す人の勝手な解釈・判断で多かれ少なかれ、話は歪曲されてしまいます。
話すなら、客観的に話すべきであると思います。
小学校で習った二重カッコ(『 』)でくくって話すことが肝心です。
勝手な解釈・判断を加えられると、せっかくの参考になるかも知れない話も、拒絶されることになります。
とある寺院で
先日、とある寺院へ行ったとき、その寺院の謂れなどについて、お坊さんから約15分間の説明を受けました。
若い修行僧が数分に一度の間隔で法衣のそでから腕時計を出し、時間を気にしながら淡々と話します。
数分も経過しない内に睡魔に襲われました。そういえば、学生時代、必ず眠くなる講義がありましが、
そのときの話し方が、このパターンだったことを思い出します。
お笑いを聞きに来ているのではないので、観客を爆笑させる必要はないと思いますが、
少なくとも観客が身を乗り出して聞き入るような、あるいは最後に質問の一つでも出るような内容にすべきです。
特に修学旅行生など、本人の希望とは全く関係なく、無理やり連れてこられた人間には、
せめて何か「お土産」は必要と思います。
即効でなくても、何年か先に役立つ可能性を秘めているような何かを。
後半はもう、ただ早く終わって欲しいと思うだけの時間でした。
これからは、公私に限らず日々生活の中で自分の判断で「良い」と思えることは、人に伝えておきたいと思います。
本当に良いかどうかは相手に任せておけば良いのです。少なくとも「説教オヤジ」にならない、あるいはそう思われないようにして。
(更新:2005.10.24)