この話を聞いていて、私自身もここまで極端ではないにしても、これに近いことをやっているのではとの思いに、反省させられます。
家族や知人に、やり方の説明を求められているのに、答えだけを出してしまっていることが多々あるように思います。
これでは、現時点の問題は確かに短時間で効率よく解決します。でも、次に同様の問題にぶつかったとき、また頼らねばなりません。
自分がいつも傍にいてあげられる環境であれば、それはそれで良いかも知れませんが、その環境がいつまでも続く保障はありません。
先の例の問題をクリアした彼も、最初はパソコン初心者の時期が必ずあったはずです。その頃は人に聞いたり、
本を読んだりと努力したはずです。
でもマスターしてしまった今、その苦労は忘れてしまっています。決して依頼した上司に冷たいのではなく、「こんなことできて(わかっていて)
当たり前」になっており、極端には「こんな基礎の基礎を教えるなど、失礼に当たる」、
ちょっと意地悪な目では「これぐらい自分でやれヨ」ぐらいの感覚になっていると思います。
教えること=学ぶこと
中国、五経の一つ「書経」の中に「教うるは学ぶの半ば」と言うのがあります。
人に物事を教えることは、漠然と「わかっている」と思い込んでいたことが、実は良く理解できていなかったことが判明したり、
それ自体の知識あるいは関連する知識が不十分であることが明確になる。
つまり、一番自分の勉強になると諭しています。
たとえば上司にすれば、部下に対して命令ではなく、頭を下げて頼むわけですから、
少しオーバーかも知れませんが、それなりの葛藤の上の行為なのです。
自分が依頼された背景、あるいは自分に依頼された内容を丁寧に受け止め、
「人に教えることは、自分のためになる」という気持ちで望むよう、心がけたいと考えます。
人に何か尋ねられたとき、「おっ、また自分の勉強になる」と思えるようになるのが理想です。
でも業務で追われているときなど、そんな風には受け取れるわけもありません。
でも、ほんの少し心の余裕を持つ努力をして、「自分のため、自分の勉強」に励めたらと思います。
(更新:2005.8.31)