私の小学校時代の登下校シーンを思い返すと、昨日学校であったおもしろいこと、気に入らない先生の悪口、
今日学校から帰って遊ぶことなど、ワイワイガヤガヤの状態でした。
もちろん同級生も多かったこともありますが、学年の違う子とも会話ははずみました。
会話中に先輩(6年生や5年生)の命令や教訓なども割り込んできますし、将来習うであろう先生の癖や、
こうしたら叱られるなどの情報もどんどん入ってくるのです。
また、各自の家の中のことも話題に上がりますから、よその家のこともわかり、
「あぁ、自分の家とはずんぶん違う家庭や、父親、母親もいるんだ」ということも、自然と学びました。
一方、人の話(情報)は信用ならぬものだということも、子供心に学習もできました。
たとえば、先輩が先生に怒られた場合、その先生のことは随分歪曲され、一方的に先生が悪いように聞かされますから、
聞いた方は「いやな先生だ」とのイメージを抱きます。
たまたまその悪いイメージの先生が、次の年の担任になることが判明したとき、暗い気持ちになります。
しかし、実際には実に楽しい先生でした。ただ、規則を守らなかったときは厳しい指導がありました。
この面だけを聞かされていたわけです。「人の話はそのまま信用してはいけない」ことも学習できたのです。
朝、集合場所に遅れている子を待つときも、まるで当たり前のように、イライラもせず沈黙状態で待っています。
私の頃は、先輩の号令一発、2〜3人がその家まで走って行かされ、門から声をかけるだけでなく、
庭に入り込んで窓から「早くーっ!」と急がせたものです。
これでは、現在の集団登校のメリットは「誘拐などの危険リスクの回避」だけに止まっています。
メリット云々以前に、よくもまぁ、これだけ沈黙状態で息がつまらないものと感心します。
私などは、1分そこそこのエレベータの中の沈黙でも苦痛です。
(ただし、他人と肩が触れ合うほどに接近し、パーソナルエリアが確保できないのも、苦痛の大きな要因ですが。)
子供の頃にこれだけ訓練されていれば、たとえ10分以上乗る必要のあるエレベータがあっても平気だろうと思えます。
求む(?)日常会話塾
このような環境・状態で成長して行った場合、そのうち自然な「生の会話」ができない人間が出てくるのではと心配になります。
そのうちどころか、今でもビジネスで打ち合わせをする場合、本題の話の前後に交わしていた日常会話、
たとえば天候の話や巷で話題になっている四方山話などはほぼ消えつつあります。
ある意味、時間的能率は上がったとも言えますが、味気ない思いをしているのは、私だけでしょうか。
義務教育での授業時間が削減された結果、「実験」が授業からほぼ消え、「実験塾」が人気を博していると聞きます。
これからは冗談ではなく、「日常会話塾」が必要になって来るのではないでしょうか。
今回申し上げたいことは、親御さんから子供に「生の会話・楽しい会話」ができるように指導されてはと思います。
そのためには、まず親御さん自身に「会話力」が必要です。
間違っても私から「君達もっと楽しくお話をしながら学校へ行こうよ」などと声をかけようものなら、
パトカーがすっ飛んで来る時代です。
たとえ子供に話しかける勇気があったとしても、そのような行為は許されない時代ですから、
親御さんに期待するしかありません。
メールも完全否定はしませんが、絵文字で感情を表すテクニックを磨くのではなく、
顔の表情・声の表情で感情を出して会話をしたいものです。
(更新:2005.7.22)